2026.7.23
病気、出産、育児、介護、家族の事情など、誰もがいつか直面する可能性のあるライフイベント。多くの場合、直面するタイミングは選べません。そしてそれらイベントは、本人の働く意欲や能力にかかわらず、ビジネスパーソンのキャリアの前提を揺さぶります。そんな時、ややもすると「迷惑をかけるくらいなら辞めた方がいい」、「今の状況では続けられない」と、キャリアを手放す方向へ考えが傾きやすくなる。私自身もかつてそう考えたことがありました。
人はなぜ、「辞めるしかない」と思ってしまうのか
2年前、乳がんの診断を受けたときのことです。診断直後、最初に浮かんだのは、治療と仕事をどう両立するかではありませんでした。「迷惑をかけるくらいなら辞めよう」、「組織にぶら下がる人にはなりたくない」。そう考え、極端な結論に飛びつきました。
振り返れば、それは冷静に選択肢を比較した結果ではありません。治療への不安、仕事への影響、周囲への申し訳なさが一気に押し寄せる中で、「辞める」か「これまで通り働く」かという二択に、自分自身を閉じ込めていました。本来であれば、治療をしながら働くこと、一時的に役割や業務量を調整すること、体調や治療の経過を見ながら段階的に判断することなど、さまざまな選択肢があったはずです。しかし当時の私には、それらを自分の現実的な選択肢として見る余裕がありませんでした。
後から考えると、ライフイベントそのものが私からキャリアを奪おうとしたのではありません。強い不安によって視野が狭まり、「辞めるしかない」と思い込んでいた。その意味で、当時の「辞めよう」という判断は、必ずしも私の本意ではなかったのかもしれません。
心理学や組織行動論では、強いストレスや不確実性にさらされた人は、目の前のリスクや負荷に注意が集中し、将来の選択肢を見通しにくくなることが指摘されています。これは能力や意欲の問題ではなく、不確実な状況に置かれた人に起こり得る自然な反応です。私もまさにその状態でした。
部下が未来を見失った時、マネージャーに何ができるのか
そんな中、上司に相談した際、返ってきた言葉は予想外でした。
「困難に直面した時こそリーダーシップを発揮する時だよ。 今すぐ辞める必要はない。本当に続けられなくなったら、その時に判断すればいい」。
その言葉を聞いた瞬間、文字通り見える景色が変わったことを覚えています。今の苦しさだけを基準に、辞める/続けるの二択しか見えていなかった思考に、「状況は変わるかもしれない」、「今すぐ決めなくてもいい」、「他の選択肢もあるかもしれない」という未来の可能性を含む視点が加わりました。
この経験を振り返ると、上司は具体的な解決策を提示したわけではありません。「辞めるな」と引き留めたわけでもありません。上司がしてくれたのは、私の認知の枠組み(ものの見方)を広げることでした。
組織心理学では、人の行動を変えるために有効なのは、単に答えを与えることではなく、ものの見方や前提を見直すことであるとされます。困難な状況にある人に必要なのは、正しい答えよりも、自分では見えなくなっている可能性を取り戻す機会なのかもしれません。ひるがえって、キャリア選択時におけるマネージャーの役割は、部下に代わって判断することではありません。部下が見失っている選択肢をもう一度見える状態にし、よりよい意思決定ができるよう、状況の意味づけを支援することにあります。この経験は私の選択に大きな影響を与えました。
仲間の価値観や将来像に触れられる仕組み
ただし、こうした対話は有事の場面で突然生まれるものではありません。後日、上司からこう言われました。「あなたがどんな人でありたいのか、どんなDreamやWishを持っているのか。それを知っていたから、あの言葉を返せたんだよ」。つまり、あの追い詰められた環境での投げかけは、決して偶然ではなかったのです。常日頃から、上司は業務状況だけでなく、私が何を大切にしているのか、どのようなキャリアを歩みたいのか、どんなありたい姿を描いているのかについて理解してくれていたのです。
自分自身の未来を描き、それを仲間と共有する。弊社では、成長支援の取り組みの一つとして「4WD(For Wish & Dream)」という施策があります。これは、社員ひとり一人が、自分の夢や願い、ありたい姿を言語化し、それをアップデートし続ける取り組みです。せっかく人生の時間を使って働くのであれば、会社への貢献だけでなく、仕事を通じて成長し、その経験を自分自身の人生にも生かしてほしい。そんな思いが込められています。そのため、ただ作成して終わりではありません。上司との定期的なキャリア1on1でもテーマとして取り上げ、互いの価値観や将来像について対話を重ねる機会を持っています。こうした日頃の取り組みと対話の積み重ねがあった。だからこそ私の「辞めたいです」に対して、「休んでいい」、「無理しなくていい」と返すのではなく、私自身の価値観に接続したメッセージを伝えてくれたのだと感じています。
困難な状況にある時、誰しも目の前の不安や負荷に意識を奪われ、自分がこれまで大切にしてきたものやその先にある可能性を見失いやすくなります。その際、次の一歩を考えるために必要なのは、一般論としての励ましや労いではありません。その人が何を大切にし、どのような人生やキャリアを望んでいるのかを踏まえたうえで、本人が見失っている可能性をもう一度照らす対話です。そしてその対話の土台となるのが、平時からの関係性です。
組織として「意味のある対話」を生み出していく
部下の価値観や仕事観、ありたい姿について日頃から対話していること。 部下自身も自分の考えや願いを安心して開示できること。こうした相互理解の蓄積があるからこそ、 有事においても、相手のものの見方、判断の前提を広げる対話が機能します。有事の意思決定の質は、平時にどれだけ意味のある対話ができているかによって決まるのです。日常ベースで価値観やキャリア観に触れられる仕組みを持ち、マネージャーが部下の意味づけを支援できる状態を組織として作っていく。それこそが、多様なバックグラウンドや事情を持つメンバーのマネジメントを行う今、マネージャー、そしてマネージャー育成に求められる重要な観点だと感じます。
ちなみに私はがんの三大治療を終え、今も変わらず仕事を続けています。もしあの時、「迷惑をかけるなら辞めよう」という考えだけで結論を出していたら、今の仕事を通じてその後に得られた経験も、新たな素晴らしい出会いや人とのつながりも存在しませんでした。もちろん、すべての人が同じ選択をすべきだと言いたいわけではありません。大切なのは、人生を左右する意思決定を、最も余裕のない瞬間の思考だけで行わないことだと身をもって痛感しています。
ライフイベントがキャリアを奪うのではない。人が困難の渦中で未来を見る力を失った時、その視野を広げてくれる対話が存在しないこと。それこそが、キャリアを手放す判断につながるのではないでしょうか。だからこそ、マネージャーの役割は助言にとどまりません。部下のものの見方を広げ、見失っていた可能性を取り戻す対話を支える。これをマネージャー個々の資質や力量に委ねるのではなく、 組織として育み、再現していくことが重要なのではないでしょうか。
参考文献:
・カール E.ワイク(2001)「センスメーキング イン オーガニゼーション」文眞堂
・Argyris, C., & Schön, D. A. (1978). Organizational Learning: A Theory of Action Perspective.
(Written by Barbara, Director, Brand Enhance Department)